石川 裕のブログ

教育関係のことを主に書きます。

「それフレネミーじゃん(笑)」は、本当に仲が良い証拠なのか?

「それ、完全にフレネミーじゃん(笑)」

放課後のファミレスや、SNSのタイムライン。友達同士のやりとりに、こんな言葉が混じります。

「フレネミー」は渋谷トレンドリサーチ(株式会社ING)が発表した「2026年秋の流行語ランキング」において、「フレネミー」が第3位にランクインしています。また、同年の「JC・JK流行語大賞2026上半期」のコトバ部門でも2位に選ばれるなど、若者の日常に急速に定着したキーワードであり、友達(Friend)と敵(Enemy)を組み合わせた造語です。もともとは、親しいふりをして裏で足を引っ張る人を指す重い言葉でしたが、いまは少しトゲのある一言への「ツッコミ」として使われています。

では、笑い合っていれば、本当に仲が良いのでしょうか。

同じ一言でも、中身は同じとは限らない

たとえば、こんなやりとりがあったとします。

場面A

  • Aさん「いいよね、頭いい人は。大して勉強しなくても点取れて」

  • Bさん「ウケる、それフレネミーじゃん(笑)」

褒め言葉と嫉妬が混ざった軽口を、笑いで返しています。親しい間柄なら、この一言で空気が軽くなることもあります。

場面B

  • Aさん「その服、ちょっと若作りしすぎて浮いてない?」

  • Bさん「えっ……何それ、フレネミーじゃん(笑)」

見た目への直接の指摘です。Bさんは笑って返していますが、実は少し傷ついているかもしれません。本気で怒れば場が重くなるので、冗談の形で受けている可能性もあります。

外から見れば、どちらも「流行語で笑い合っているやりとり」です。でも、Bさんの内側まで同じとは限りません。周りの人も、言った本人も、その違いに気づきにくいのが厄介なところです。

笑顔や冗談だけでは、相手の気持ちは分かりません。それなのに私たちは、「冗談だから大丈夫」と流したり、逆に「あの子は敵だった」と決めつけたりしがちです。向きは正反対でも、目の前の具体的な一言ではなく、二人の関係を表すラベルで済ませている点は同じです。

私は大喜利の管理人として、これまでいくつもの「笑い」を見てきました。笑いは人を楽しませますが、使い方によっては人を傷つけます。だからこそ、笑いの場で「敵か味方か」という見方がどう働くのかを、考えたいのです。

親しい相手との間にも、攻撃は起こる

米国ノースカロライナ州で、3,000人を超える中高生を追った研究があります。友人関係が続いた生徒同士では、互いに攻撃したり被害を与えたりする可能性が、より遠い関係の生徒同士の約4倍、友人関係が途中で途切れた場合でも約3倍だったと報告されています。友人から攻撃を受けた生徒では、不安や抑うつの高さ、学校への愛着の低さとの関連も見られました。研究者らは、学校内での地位や、同じ立場・友人関係をめぐる競争が背景にある可能性を指摘しています。

ここで測られたのは、冗談ではなく、実際の攻撃や被害です。この研究が示すのは、親しい間柄でも傷つけ合いは起こるということまでです。「敵か味方か」で見る傾向こについては、この記事の考えです。

「仲良し」「冗談」というラベルが見えなくするもの

2011年10月、滋賀県大津市で中学2年の男子生徒が自殺しました。報道では、加害者とされる生徒は「遊びの範囲」だと主張し、学校側も仲良しグループと見ていたと伝えられています。事件から15年となる今年、父親は「状況は何も変わっていない」と語っています。

大津の事件と日常の冗談を、同列には扱えません。ただ、「仲良し」「冗談」というラベルによって、行為がもたらす苦痛が見えにくくなる構造は共通しています。

いじめ防止対策推進法第2条の定義には、一定の人的関係にある児童等による、心理的・物理的な影響を与える行為であることに加えて、対象となった児童等が「心身の苦痛を感じているもの」という要件があります。言った側の意図は、要件に入っていません。「仲良しだから」「冗談だから」と言っても、受けた側の苦痛がなかったことにはならないのです。

問題は、「今の一言が嫌だった」という個別の行為への違和感を、「この人は敵か味方か」という人格の判定にすり替えてしまうことです。すり替えが起きると、言う側は自分の行為を振り返らなくなります。受ける側は、「関係を壊す人」と思われるのを恐れて声を上げられなくなるか、一度の一言で相手全体を「敵」と拒絶してしまいます。

大人の職場でも、同じことが起きている

職場の「いじり」や「愛のあるツッコミ」は、教室のやりとりの大人版です。たとえば、会議のたびに特定の一人が「いじられ役」として扱われ、本人は苦笑いで受け流し、誰も止めない。そんな場面があります。

すべてのいじりがパワーハラスメントに当たるわけではありません。ただ、厚生労働省の指針では、言った側の悪意だけでなく、言動の行われた関係性、業務上の必要性や相当性、就業環境への影響などが判断の材料になります。「冗談だった」「悪気はなかった」という説明だけで、問題がなくなるわけではありません。大人も、立場や職場の空気を気にして、笑ってやり過ごすことがあります。そのぶん、周りからは見えにくくなります。

どう受け止め、どう向き合うか

1. 人格ではなく、「行為」を見る。
「友達だけど、今の一言は嫌だった」。この2つは両立します。まず、自分がどう感じたかを軽く扱わないことです。相手に悪意がなかったとしても、傷ついたという事実まで打ち消す必要はありません。そのうえで、起きたことを具体的に捉えます。「あの人はフレネミーだ」と貼る代わりに、「今の言い方は少し嫌だった」と伝えます。一度の行為で、相手のすべてを「敵」と決める必要もありません。

 

2. 笑ってしまっても、違和感をなかったことにしない。
その場の空気で笑ってしまうのは自然です。でも、笑った=平気、ではありません。あとから「さっきは流しちゃったけど、実はちょっと嫌だった」と伝え直していいのです。言う側も、冗談を言った直後に相手の表情を一瞬確かめ、「笑っていたから大丈夫」と決めつけないことです。

 

3. 一人で抱え込まない。
「気にしすぎかな」と一人で悩むと、相手を過剰に敵視するか、我慢し続けるかの二択になりがちです。信頼できる人に「こういうことがあったんだけど、どう思う?」と聞いてみてください。敵と決めつけないことは、無理に関係を続けることとは違います。嫌がらせが繰り返されるなら、相談窓口などの仕組みを使ってください。

 

学年や場に合わせて

  • 小学校:「ちくちく言葉/ふわふわ言葉」の分類で終わらせず、言われたとき心や体がどう感じたかを、自分の言葉で確かめる練習を重ねる。

  • 中学・高校:グループLINEやSNSは表情が見えず、冗談が暴走しやすい。デリケートな話は、文字だけで済ませず、相手や状況に応じて対面や個別の場で話す。

  • 職場:「いじり」を潤滑油として許す空気を見直し、不快感を伝えた人が不利にならない相談の道を用意する。

冗談を言い合えることと、平気なことは違う

「それフレネミーじゃん(笑)」と言い合えることだけでは、二人が本当に信頼し合っているかどうかは分かりません。目安になるのは、笑ったあとです。どちらかが「嫌だった」と伝えたとき、その気持ちを受け止められる関係かどうか。

笑えなかったときには、笑わずに、こう言えること。

「今のは、少し嫌だった」

余談


大喜利管理人としていくつもの笑いを見て感じたことは、「笑い」で人を傷つけてはいけないということ。今回は「ツッコミ」による「笑い」ですが、状況によっては人を傷つける「笑い」になります。また「敵か味方か」という視点は視野を狭めることになり、教育的な警鐘の意味も含めています。
私は「笑い」が好きです。理由は人が幸せな時、楽しい時、嬉しい時は笑うから。そんな「笑い」を攻撃のツールとして扱って欲しくないなと思い、今回の記事を書いてみました。


教育を科学で読み解く本を書いています。Kindle Unlimitedなら無料です。

 

 

 

 

AIが危惧されていたり問題になっていたりするから作ってみた〜ニャンゴリズム〜

youtu.be

 

学生がAIでレポートを書いたり、会社員が企画書をAIで作ったり。 そんな光景が、すっかり当たり前になりました。

 

でも、それで出来栄えが良いかというと、そうでもない。 「それらしい言葉」ばかりが並んで、自分の頭で考えることを手放しているような……そんな話をよく耳にするようになり、今回の曲を作ってみました。

 

猫の視点で描くデジタル社会の冷たい温度。新曲「ニャンゴリズム」です。

深夜のデスクワーク、終わらないコピペ作業。 ため息をつく背中を、すぐそばで見つめている存在がいます。

 

「ニャンゴリズム」は、気怠い日常を切り取ったエレクトロなジャズポップ。 主人公は、飼い主の膝で丸くなる一匹の猫。 温かい肉球で人間を癒やしながら、その滑稽な姿を静かに観察しています。

 

曲の土台を支えるのは、サックスのリズミカルな音が、渋いベースラインや電子オルガンと絡み合います。 時間に追われ、見えない何かに急かされる現代人の焦燥感が、この音の重なりから伝わってくるはずです。

 

聴く者をハッとさせるのは、中盤から一気に加速するラップパート。 それまでの気怠いテンポから急展開し、強いビートが押し寄せます。 考えることを放棄し、検索窓に答えを求める人間の浅はかさを、容赦ないスピード感で突き放す展開に注目してください。

 

そして、最大の仕掛けは曲のラストに用意しました。体温だと思っていた猫のぬくもり。 それが完璧にプログラムされた観測者の計算だったと明かされる瞬間です。微かに響く冷却ファンの音が、すべてを冷たく裏切っていきます。

 

皮肉たっぷりなのに、どこか心地よい。 不思議な余韻を残すこの曲。細かい音の仕掛けも楽しんでほしいので、ぜひイヤホン推奨で聴いてみてください。

若手とベテランの解像度の違い

学校教員はベテラン教員と若手教員が見えているものが違うなと感じることがある。また逆に管理職や教育委員会など役職が上の人だから見えていることもある。

その一方、経験や役職が上だからと言って、必ずしもみんなが見えているわけではないなと感じることもある。

例えば朝の職員室。

「今日、クラスちょっと荒れるかもね」
「え、まだ誰も教室入ってないですよね?」
「登校の様子で」
「登校中にケンカでもあったんですか?」
「いや、そうではなく」

 

この例えは学校だけの話だと思われがちですが、そんなことはない。

営業部なら「今日のあの取引先、雲行き怪しいな」と朝イチで見抜く上司。 工事現場なら「今日のこの空気、事故る前兆だ」と勘付く熟練の職人。
どの世界にも必ずいる、空気の変化を誰よりも早く察知する人たち。

 

同じ場所で、同じ人と、同じ空気を吸っているのに、見えている景色がまるで違う。 この解像度の差は一体どこから生まれるのだろうか。他の誰もが疑問に思うであろうことを、どうにか形としてできないかと思い『科学で読み解く教師の「判断」』を執筆しました。

 

ベテランは「よく見ている」と勘違いされがちです。 そうではないく、ベテランの先生の体には「いつものクラス」という基準がすでに染み付いている。 だから、そこからのわずかなズレに反応できる。

 

ただ、ここで「経験は正義」と締めくくれないのが、現場の厳しいところです。見えたものをどう扱うか、判断するか。ここに解像度の差が隠れている。

 

情報を読み取り、どう動くかを決めるのが「判断」です。 判断とは、正解を知っていることではありません。 限られた情報と時間の中で、その瞬間の最善を選び、結果を引き受け、次に活かす地味な工程の繰り返しです。

経験によって解像度の差を感じことはありますが、20年同じ部署にいるだけの人と、20年間自分の判断を検証し続けてきた人では、似ているようで中身はまったくの別物となるのです。

今回書いたのは、あらゆる「判断する仕事」への一冊となればと思い書きました。 教室の話のはずなのに、読んでいると自分の職場の顔がちらつく。 そんな読書体験になればと思います。

AI時代に求められる力とは?

職場で管理職もAIの研修を受けるようになり、管理職じゃない人もAIを使い始め、異業者の人と関わる中で似たような状況だなと感じた&教育にも関係するので、この記事を書きました。

で、AI時代に求められる力とは何か?

結論を先にいうと、それは「価値判断力」です。そのように感じている理由を書いていきます。

誰もが使えるが、誰もがその価値を判断できるわけではない

約20年前、英語と日本語を変換する自動翻訳サイト(Google翻訳やYahoo!翻訳など)が登場しました。同じような時期に、外資系企業への転職や事業のグローバル化が注目され、「英語ができること」は一つの大きなスキルとして扱われていました。
 
私はその当時、特に語学スキルがあるわけでもない知人が、外資系企業に勤めることになり、嘆いていたのを今も思い出します。

「日本語の資料を英語にするよう言われたけど、全然だめなんだよねぇ。自動翻訳サイトを使っても、すぐ上司に差し戻されるし」
 
この20年前の風景と同じ構造の出来事が、現代のAI時代においても起きています。

当時の自動翻訳も現在の生成AIも、「専門知識(語学力や専門技能)がなくても、もっともらしい成果物を一瞬で出力できる」という共通点をもっているのです。
 
例えばAIでいうと
 
・AIを使って作成した企画が、すぐに上司に差し戻される(職場)
・AIを使って大学のレポートを書いても、すぐに教授に見抜かれる(学校)
・AIを使って音楽を作っても、一流アーティストの作品のようにならない(文化・芸術)
 
こうした状況はなぜ起こるのでしょうか。私は冒頭で述べた「価値判断力」が十分ではないからだと考えています。
 
現在の生成AIは、膨大なデータから統計的にもっともらしい平均値を瞬時に導き出すことは得意ですが、それが目の前の複雑な状況において、どのような価値をもつか的確に判断する機能をもっていません。

価値を評価する「内なる物差し」

私は価値判断力を「事象を深く広く捉え、比較し、考察し、活用する成果物に対して有用性や普遍性などの価値を判断する力」だと考えています。
 
約20年前に自動翻訳サイトで何度も差し戻された知人は、出力された英語テキストの価値(有用性や正確性)を正しく測ることができず困っていました。
彼なりに、単語や文法をネットや参考書で調べていたことでしょう。しかし、それが仕事の現場で「通用するレベルの英語」であるかどうかを見極めるための、彼自身の内なる物差しが存在しなかったわけです。
 
これと同じように、いくらAIを活用できても、出力された成果物を評価する内なる物差しがなければ、その領域で必要とされる水準には到達できません。
 
今後、AIの技術がさらに進化し、出力がより洗練されたものになったとしても、この構造は変わりません。

むしろ、さらにAIの成長を考えると、現在より一見完璧に見える出力の中から、微かな文脈のズレや倫理的な妥当性を見抜くための、より高度な価値判断力が私たちに問われることになるはずです。

価値判断力を高める「認知的柔軟性」


では、価値判断力を高めるにはどうすれば良いか。

それは、基礎的な知識と見識を高め、異なる視点を幅広く統合して考える習慣を続けることだと感じます。

物事を多角的に捉えることの重要性を示す例として、ここでは「運動・スポーツ」という一つのカテゴリーを取り上げてみましょう。私は運動やスポーツが専門なので、これを一つの枠組みとして視野を広げていくと、次のように見え方が変化します。
 
運動・スポーツを…
・「動き」として捉えると、物理学の領域になる。
・「ケガの予防」や「健康」として捉えると、医学の領域になる。
・「選手のパフォーマンス向上」として捉えると、生理学や心理学の領域になる。
・「人間形成」として捉えると、教育学の領域になる。
・「プロスポーツ」として捉えると、経済学や経営学の領域になる。
・「文化」として捉えると、社会学や哲学の領域になる。
 
このように、一つの事象であっても、当てはめる枠組みを変えれば、いくらでも幅広く捉えることができます。
 
認知科学においては、こうした視点の自在な切り替えを「認知的柔軟性(Cognitive Flexibility)」と呼ぶことがあります。一つの事象に対してどれだけ多様な捉え方ができるか、そしてその捉えを支える基礎的な知識があるかどうか。それが、物事を見る解像度に決定的な差を生みます。その解像度をもとに価値判断を繰り返していくことで、価値判断力は高まっていく。

「分かっていない」と自覚できる謙虚さ


「基礎的な知識を高め、幅広く統合して考える習慣」なんて、続けるのは面倒くさいし、難しそう……。
そう思う人もいるかもしれませんが、案外、そんなことはありません。
 
・普段の身近なニュースや出来事を、自分の関心カテゴリーにあてはめて考えてみる。
・「良い」と感じたものを頭の片隅に置いておき、ピンときたときに他のものと比較してみる。
・「自分はまだ分かっていない」ということを前提にする。
 
とくに最後の「自分が分かっていないことを前提にする」という姿勢は、若手であれベテランであれ、きわめて重要です。
 
コーネル大学の心理学者デイヴィッド・ダニングらは、能力の低い人ほど自分の能力を過大評価し、逆に能力の高い人ほど自分の能力を過小評価する傾向があることを実証しました(ダニング=クルーガー効果と呼ばれる認知バイアスです)。

人は知識が増え、事象の複雑さを知るほど、「自分にはまだ見えていない領域がある」と気づくことができます。
 
「分かっていない」と自覚できること自体が、すでに一定以上の見識と解像度を獲得している証拠でもあります。

私の周りを見渡すと、その謙虚さと素直さを兼ね備えている人は、より多くの学びを得られる環境を自ら作り出しているように感じます。
 
私はこの記事で「価値判断力が大切だ!」と書きましたが、それが全てではないし、そもそもその主張がズレているかもしれません。ただ、職場や異業種の人から似たような話を受けたので、一つの考えとして書いてみました。
 
おっ、ヤカンのお湯が沸いたので、また今度。

タカシとお父さん「料理の修行」

父「なあ、タカシGWはどう過ごした?」
タカシ「どうって、まぁ演劇の練習をしたり、適当に遊びに行ったりはしたよ。お父さんは何やっての?」
父「おっ、気になるか気になるか♪」
タカシ「いや、やっぱどうでもいいや。」
父「いや、特別に教えてあげよう♪」
タカシ「…。」
父「実はな、料理の修行をしてたんだ♪」
タカシ「えっ、修行!?料理教室にでも通ってたの?」
父「いや、そこは本格的に寿司屋や料亭で修行をしようと思ってな」
タカシ「寿司屋!?料亭!?」
父「寿司屋や料亭で修行をするための修行をしてたんだ♪」
タカシ「修行のための修行…。どんな修行何してたの…?」
父「まず、滝に打たれます」
タカシ「必要ねーよ!」
父「あっ、滝に打たれるのはニンジンの方だぞ♪」
タカシ「お前じゃないのかよ!」
父「すると、ニンジンがきれいになります♪」
タカシ「洗っただけじゃん…。」
父「家に帰ります。」
タカシ「…で?」
父「ニンジンをミキサーにかけ、牛乳やコンソメスープで味をつけたりつけなかったりします♪」
タカシ「…それで?」
父「キャロットとニンジンのスープの出来上がり!」
タカシ「キャロットもニンジンって意味じゃん!それ単なるニンジンスープだよね!?」
父「いや、それは…深く考えても、やはり『キャロットとニンジンのスープ』だろ。」
タカシ「マジ意味わかんないよ。」
父「他にも修行はたくさんしたぞ♪」
タカシ「何したの…?」
父「座禅だ♪」
タカシ「なんで座禅?」
父「それはイメージを広げ、新たなメニューを考案するためだ♪」
タカシ「で、どんなメニューを思いついたの…?」
父「パンとブレッドの焼きトースト!」
タカシ「いろいろかぶってるよ!」
父「鶏チキン!」
タカシ「鶏はチキンなのでは!?」
父「ご飯とライスの盛り合わせ!」
タカシ「それ普通に盛られたご飯だよ!」
父「トマトとトメィトゥの生サラダ!」
タカシ「片方を英語っぽく言っただけ!?」
父「どうだ、すごいだろ♪」
タカシ「いろいろな意味ですごいよ…。」
父「あっ、他にもあるぞ♪」
タカシ「…何?」
父「タマゴとタメェイゴォのサラダだ♪」
タカシ「タマゴは英語でエッグだよ。」
父「えっ?」

 

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本を出版しました!

 

 

「学級崩壊」を個人の能力のせいにしていませんか?〜科学で読み解く学級崩壊〜

 仕事柄、よく学級崩壊の話やネタが身の回りにあります。そこで思うのが、学級崩壊の原因を個人の能力のせいにしてる教員や、対応方法を経験や精神論で終始指導している管理職や先輩教員がいるなと…。

 そういう教員、管理職の話を聞いても私は納得感があまりありません。若手教員の場合は、納得できなくても先輩教員or管理職の指示なら従わなければならない。その結果、よりカオスになっていくという状況も見てきました。
 そのような現状を踏まえ、何かできることはないかと一冊書きました。KindleUnlimitedではキャンペーンで無料です。是非手に取っていただけると幸いです。

 

遠足中に「お茶買えず」、帰宅した児童が熱中症 公立小側は責任否定の妥当性について考える

以下の記事が話題です。

遠足中に「お茶買えず」、帰宅した児童が熱中症 公立小側は責任否定 - 日本経済新聞 関西のある公立小学校の女子児童が、遠足から帰宅後に熱中症で救急搬送された。親は事前に水筒が空になればお茶を購入できるよう担 www.nikkei.com  

 

 裁判と一般的な感覚がズレることはよくあります。旭川の事件など、感情による批判と炎上は、民主的な社会において望ましくない方向性へ向かっているように感じます。そのため過去の判例を踏まえ、妥当性について考えてみました。

 

判決について


 今回の地裁の判決(学校側勝訴)について、過去の「学校事故」や「熱中症」に関する裁判例と比較しながら、どうしてこういう結論になったのか整理してみます。結論から言うと、「法的な判断基準」に照らし合わせると、地裁の判決は過去の判例の傾向に沿っていると言えます。感情的にはモヤモヤしますが。

ちなみに、ポイントは大きく分けて3つあります。

1. 過去の熱中症判例との「環境」の違い

 過去に学校側が「安全配慮義務違反」で多額の賠償を命じられたケース(剣道部の合宿での事故や、中学のバドミントン部の事故など)は、大半が「真夏の部活動中」かつ「環境省の指針(WBGT等の暑さ指数)で厳重警戒・危険とされる環境下」で起きているのです。

 今回の遠足の最高気温は「25度(夏日)」。環境省の指針では「要注意(激しい運動は避ける)」レベルにとどまります。裁判所は、過去の部活の死亡事故のような「直ちに生命の危険が及ぶ極端な暑熱環境ではなかった」と判断したと思われます。

2. 「予見可能性」について

 裁判で学校の過失が認められるには、「教師が事故を予測できたか(予見可能性)」と「防げたか(結果回避義務)」が問われます。

 過去に学校が負けた裁判例を見ると、「生徒がふらついていた」「足をつってうずくまっていた」など、明らかな体調不良のサインがあったのに教師が漫然と活動を続けさせたケースばかりなのです。 今回の記事を読むと、お茶をねだった時の女児は「ハキハキとした声」で、直前に「水筒に口をつけていた(中身が完全にゼロだったかは不明)」とあります。裁判所は、この時点での客観的な様子から「重篤な熱中症に陥るサインは見られず、教師が危険を予見するのは不可能だった」と判断したと思われます。

3. 「学校の裁量権」の広さ

「お金を持たせない」「水筒以外のお茶は買わせない」というルールについて。特別活動や学校行事を企画・運営する立場からすれば、児童間の不公平感をなくし、集団行動の規律を守らせるために、例外を作らずお金の持ち込みを一律で禁止したくなる気持ちはよくわかると思います。

 日本の裁判所は、教育現場における「ルールの設定」や「現場の教師の判断」について、かなり広い裁量権を認める傾向があります。「極端に不合理」でただちに命に関わる状況でない限り、教育的指導の範囲内(最後までやり遂げる達成感を与えたかった等)として、違法とはみなさないのです。

私の率直な意見としては……

 法的なロジック(客観的な予見可能性がない、裁量の範囲内)としては、一審の判決は妥当だと考えられます。
 でも、保護者から事前に「体力が心配」「現金を持たせる」と具体的なSOS(危険の予兆)が出されていたのに、それを「不公平感」という集団のルールで押し切ってしまったのは、リスクマネジメントとしては完全に三流だと感じます。
 集団行動のルールと個別の配慮のバランスを取るのは、学校行事の運営で一番頭を悩ませるところではありますが、この事案は明らかに「ルールを守らせること」ばかりに目がいってしまったことが問題に繋がったと考えられます。
 私が当事者であれば、判決的には妥当だとしても、行事のマニュアルを見直すことを一つの手立てとして対応しますが、どうでしょうか。皆さんの意見も是非お聞かせください。



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